恍惚の宿木

ひと。

 恍惚の宿木を以てひとと爲すとは是如何。旧恍惚の宿木では説明のところに人生における恍惚とすること云々と書いていたが、 仕切り直しするに当って少々改めることにした。しかしどうにもわかりづらく思えるので少しばかり補足しておこうと思う。

 宿木(やどりぎ)とは寄生木とも書かれる。要するに他の木に寄生して養分を貰っている木なのである。 こういうとなんともイメージが悪い。恍惚とはそもそも、恍たり惚たり、つまり惚けておる状態を指すわけだが、 端的に言うとボーっとしていることである。寄生して呆けておるのだからなんともどうしようもない感じもしてくる。

 恍惚の宿木では、この恍惚を割と普遍的に用いられている幸せ呆けという状態を指す語として用いているわけだが、 もう少し踏み込むと個人的には自己陶酔とほぼ同義として用いている。要は自己満足でしょと言われるともうグダグダである。 しかしまあ、自己が満足せぬものを他者が満足するというのも侘びしいものである。 そもそも自己が満足せぬものをわーるどわいどうぇぶの世界に放り込むなど不法投棄もいいところだ。 少なくとも自己満足せえよ、というのが恍惚を自己陶酔とするその心である。 欲を言えば人の目に晒す以上は作品として仕上げることが望ましいが、何を差し置いても自分が気持ちよくなければならん。 少なくとも私はそう考えておるのである。

 次いで宿木についてだが、先にも述べたように寄生しておる。寄生生物というものは概して宿主がいないと死んでしまうものだという。 ひとというものもそうではないかと私は思うのである。自己陶酔による幸せ呆けというものは、なんだかとても情けないようにも聞こえるが、 ひとにとって欠く可からざるものであるように思う。ひとが幸せになるために生きているのだとしたら、 これは或いはその答えのひとつである。しかし恍惚は人生の目的であるだけでなく、生きるためのエナジーではなかろうか。 更に言えば、恍惚となるためにひとは生きるのではなく、恍惚によってひとは生き長らえているのではなかろうかと思う。 恍惚の宿主がひとなのではなく、ひとが恍惚に寄生して生きている。 恍惚の、宿木は、ひとである。そういう意味を込めて恍惚の宿木を解してひとと書いた。

文頭に書いた人生における恍惚とすること云々は、恍惚がひとに寄生するという観点から述べたものである。 今になって見方を変えたわけだが、本当はどちらでも良い。もともとさしたる意味など無かった。 だが、意味などありませんと大っぴらに言うのも気が咎めるので勢い余ってよく分からないことを書き散らしてみた。 だけれども大切なのは恍惚の宿木という名前ではなくて、それが指すこの空間であり、空気である。 恍惚の宿木が貴方にとってどんな意味を持ってもかまわない。況や、ローカライズされた意味を持つことが重要である。 呟いた恍惚の宿木というフレーズが貴方にとって魔法のように輝かんことを願って止まない。